ブルース・リー 生誕80周年リマスター復活祭2020(前編)

シネ・ウインド

〇Bruce Lee、李小龍、リー・シャオロン

 今更この人について紹介していくこともないだろうとは思いますが、こうして目を通してくださってる方のなかにも、ブルース・リーについてあまりご存知ない方もいらっしゃるかもしれません。今回シネ・ウインドでも開催される特集上映の機に乗じて、ブルース・リーがどれほどのスターであったか、どれほどの魅力を備えているかについて振り返りながら記述してみたいと思います。

 ブルース・リー。不世出のカンフー・スター。世紀の闘神。不滅のドラゴン。いろいろと敬意込められ呼ばれています。生まれは1940年のサンフランシスコ。アメリカに長期滞在していた家族とともに香港に帰国した後、8歳頃から子役として映画へ出演していきました。武術の指導を受け、13歳になると葉問のもとで詠春拳の修行をしたことが、大変重要な経験になりました。18歳で単身渡米し、やがてワシントン大学へ進学。武術指導や哲学講師を務めていました。

 1966年、詠春拳からの発展を試みた独自の哲学、截拳道(ジークンドー)を創始。同年、詠春拳の演武をきっかけにスカウトされ、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』へ出演。それから映画関係者への武術指導や俳優としてキャリアを積み、1970年、当時新設の映画会社ゴールデン・ハーベストと出演契約した『ドラゴン危機一発』で映画初主演。これが大ヒットになりました。1972年の『ドラゴン怒りの鉄拳』と『ドラゴンへの道』へ主演。大成功を記録して本物の大スターとなり、ゴールデン・ハーベストを大企業へ急成長をもたらしました。1973年、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』を完成させ、『死亡遊戯』の撮影途中、横になったまま昏睡状態に陥り、亡くなってしまいました。享年32。これからどれだけの活躍を遂げていくのか、絶大な期待が寄せられていた矢先の急逝でした。

 リーの死後、『燃えよドラゴン』が世界各地で公開され、大ヒット。その存在がワールドワイドに知られ、カンフー・ブームを巻き起こしました。日本でも劇場公開とTV放映によって、若者を中心に、あまりにも強靭な勇姿に魅せられたファンが激増。特に男児たちはリーの個性とファイトスタイルを真似ていました。それから、有名人となっていったジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ジェット・リー、ドニー・イェンら活劇スターたちもブルース・リーからの影響と敬意を公言。その偉大さが伝説化されながら、遺された個性・演技・武術・アクションはいまも各地で英姿を刻んでいるわけです。

〇『ドラゴン危機一発』

 ブルース・リーの初主演作品。田舎からタイへ出稼ぎにやってきた青年の話です。製氷工場で働くことになるんですが、そこの社長が悪い人で、氷塊に麻薬を隠して密売していました。それに気付いた仕事仲間たちが次々と口封じに殺されてしまいます。青年は母親と「ケンカはしない」と約束しているんですね。だから人の横暴を見てしまっても、関わらないように辛抱します。ということで、映画の前半でアクションを披露するのは青年の従兄弟を演じるジェームズ・ティエンなんです。元々はこの人が主役の映画でした。それがゴールデン・ハーベストの出演契約とリー自身の能力と存在感が凄くて、主役が代わった経緯がありました。

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 仲間たちが次々と行方不明となり、暴力沙汰が白熱してきたところで、リー青年はついに母親との約束を破り武力を解放します。その強さ。蹴りの凄さ。みんながビックリするところ。ここからがブルース・リーの活劇です。工員消失事件の謎を追い、単身社長の邸宅へ出向きます。いよいよどうなっていくか。真相に迫ったリー青年が悪者に囲まれてからはもう目が離せませんね。どう闘うか。この武術。足運び。怒涛の連続蹴り。気合の一突き。怒れる勢いでバシバシ蹴り散らして、最後の最後、悪い社長と決闘です。

 リー青年と対決する社長さんを演じるのはハン・インチェ。この方もスタントマン、俳優、武術家として活躍してきた人で、本作『ドラゴン危機一発』でも武術指導にあたっています。サーカス一座に在籍していたこともあり、その経験を活かしてトランポリンを使ったジャンプアクションを映画に導入しました。この作品でも、自ら模範演技を披露する場面で跳躍して見せます。60年代、70年代の香港映画を盛り上げた武術指導家の大御所ですね。1991年に癌で亡くなりました。『ドラゴン危機一発』はブルース・リーの活躍は勿論、前半の主役を務めたジェームズ・ティエンと、悪役のアクション俳優ハン・インチェの存在にも注目してみて下さい。

上映企画部 若槻