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▲中村賢作さん シネ・ウインド前にて

※この記事は、月刊ウインド2015年3月号に掲載されたものです。

ウインド仲間登場

中村◆月刊ウインドの読者は、急に小者が出てきて驚くんじゃないかな(笑)。

——最近会員になった人から、中村賢作さんってどういう人なんですか?っていう質問が結構あったんですよね。昔からのウインド仲間ではあるけれど、せっかくだからこの機会にちゃんと話を聞いてみたいと思って。で、中村賢作さんとは、どういう人なのか?

中村◆うざったい人という感じですよね。何、このくどい文章書く人は?とか(笑)。

——シネ・ウインドとの出会いはいつ?

中村◆ウインド開館が1985年の12月。僕は85年4月に就職で川崎の方に行っちゃったんですけど、石井元くんが新潟大学の映画倶楽部で仲間だったんですよ。石井くんは院で新潟に残ってたから、彼を通じてシネ・ウインドは知ってた。正月に帰省したらシネ・ウインドはもう開館してたんだよね。会員になったのは忘れもしない(笑)、86年の1月3日。たまたま上映企画室をやってて、室長が鈴木良一さん。それが最初です。新潟へ戻ってきたのは91年の4月。丸6年川崎にいて、それからはずっと新潟。ちゃんとスタッフを始めたのは92年。

——新潟にいない6年間も、ずっと会員だったんですね。

中村◆そういう人、結構いるんですよ。夏とかお正月とか、帰ってきた時にウインドで映画を見てました。あと、新潟でやってない映画の紹介みたいなことを。おせっかいなんだよね(笑)。こういうのあるんだけど、新潟でやらないの?と、チラシとか送ってた。

——そもそも、映画はいつから?

中村◆大学に入ってから。高校までは佐渡だから。映画館は当時、佐渡に1館だけ、両津会館っていうのがあったんだよね。大学の頃になくなったんだけど。高校の頃、そこで「エデンの東」「理由なき反抗」「ジョーイ」「未知との遭遇」「エーゲ海に捧ぐ」を見た。上映はほとんど成人映画で、月に1回一般映画もやるという感じの館だった。映画を見たのは年に4,5回くらいじゃないですかね。

中3の時に、いとこに連れられて新潟市の名画座ライフで「卒業」「アメリカン・グラフティ」の2本立てを見た。僕のライフ体験はそれが最初ですね。その後、大学に入ってから映画倶楽部に入って、ライフに通った。当時、前ウインド支配人の橋本さんがライフに勤めていたので、そこで橋本さんと話したこともある。

——いつからこんなにコアに?(笑)

中村◆今でもそんなにコアじゃないよ(笑)。

——年に4,5回くらいしか見てなかったのに、大学に入ったら映画倶楽部?

中村◆元々、暗い内向的な性格だから。映画好きってそういう人、多いでしょ。自分が寂しいから映画の中に何かを求める(笑)。僕は典型的にそういうオタクっぽい映画ファンだったんで。彼女がいたわけでもないし(笑)。 ただ、大学当時は外国映画の話をすると、もてそうな気がしたんですよ。アラン・レネとか、ゴダールとか、トリュフォーとか、言ってみたりするともてるのかなって(笑)。

——映画通っぽいやつですね。

中村◆そうそう、それでももてなかったですけどね。

——そっか、もてたかったんだ(笑)。

中村◆え、もてたかったですよ。何の話してるんだ(笑)。

入口は映画

中村◆大学の頃に自主上映してたんですよ。映画倶楽部でやったし、その他に団体を作ってゴダール上映したり。「死刑台のメロディ」っていう、アメリカで実際にあった、無実の罪で囚われて死刑になったイタリア人アナーキスト、サッコとバンゼッティの映画を自主上映したんです。その時、社会科学研究部の女子学生(中核派かな)が、「よかった、ぜひ、こういうことをやってほしい」と。僕はノンポリで政治には全然興味なかったし、別にオルグされたわけでもないけど、そこで目覚めたかも。いや、そんなことでもないんだけど(笑)。卒論も1920年代ののアメリカ。禁酒法時代のアメリカと、その反動の一環としての赤狩りといったあたり。全部入口は映画でしたね。西部劇でも、ジョン・ウェインの「駅馬車」「騎兵隊」といったインディアンが悪者っていう映画が作られる一方で、ジョン・フォードの「シャイアン」、ラルフ・ネルソンの「ソルジャー・ブルー」など、インディアン虐殺とかを描いた映画があるじゃないですか。自国の負の歴史みたいなものを描いている映画に興味を持ったんだね。カッコつけてるみたいですけど(笑)。

——最初は洋画なんですね。

中村◆そうですね、特に日本映画ってことはなかったですね。

——もっともあの頃は、映画といえば洋画、という時代ではありました。

中村◆日本映画をよく見るようになったのは、ライフで大森一樹監督の「ヒポクラテスたち」を見て、興味を持ってから。医学生の話だけど、同じ大学生の話としておもしろかったし、感動した。悶々とした感じというか、自分の将来が不安だとか、共感したし。「ヒポクラテスたち」が好きで、当時、映画倶楽部で脚本・監督して8ミリ映画を作ったんだけど、タイトルが「ヒポポタマスたち」、河馬ですね(笑)。内容は群像ものにはならなかったけど。

——あ、作るほうもやってたんですか。

中村◆作ったのは一本だけでしたけど。

日本映画やってよ

中村◆日本映画のことを考えたのは、シネ・ウインドの会員、スタッフになってから。当時は、洋画はよく上映されてたけど、日本映画は少なかったから、橋本支配人から「賢ちゃん、日本映画やってよ」って言われて。僕も天邪鬼だから、外国映画ばっかりやってると日本映画もやったほうがいいんじゃないのっていう風になったんで、自分に無理やり色をつけて、僕は日本映画専門にしようかな、って。

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——“日本映画大冒険”はその頃?

中村◆92年からでした。最初は「節子さん、秀子さん」っていう企画で、小津安二郎監督の「麦秋」と、木下恵介監督の「カルメン、故郷に帰る」を、松竹から借りて、1週間、2本立てでメイン上映。入りは散々だったんだよね。第2弾は東映から借りて、萬屋綿之介の「瞼の母」、高倉健の「網走番外地」シリーズ3本目「望郷編」をやったんだけど、その2本立てはさらに入りが悪かった。で、その後はメイン上映はやめて、モーニングだけとか、レイトで市川雷蔵やったりね。でも、シネ・ウインド8周年祭でロマンポルノのオールナイト(にっかつロマンポルノ傑作選)をやった時、どっとお客さんが入った。で、「お前らオールナイトでいけ」となったんですよ。女性のお客さんが多くて。女子大生がロマンポルノを見てるってのは新鮮でしたね。

——「麦秋」「カルメン」はもっと入ると思ったんでしょ? 入らなくて、どうでした?

中村◆企画ものっていうのはある程度、限界があるのかな、とちょっと現実を知った。

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“日本映画大冒険”が100作品の目標を達成して終わった後、96年からウインドの学生アルバイトの若い子たちと一緒に “HOGA-BIN”を始めて、いろいろ企画ものをやっていく中でだんだん学んで、あまり動員を気にしないで、自分たちの好きなものをやっていけばいいかな、って方向になっていった。原発ものを特集企画したり、東京から監督に来てもらったり。シネ・ウインドとしてはその前から監督の来館はあったけど、僕らが監督さんを呼んだのは95年3月、廣木隆一監督が最初。「800 TWO LAP RUNNERS」初日のレイトショー後に、「エンジェル・ダスト」「夢魔」「800」をオールナイトで。「エンジェル・ダスト」は石井聰亙監督だけど。

——監督への連絡はどうやって?

中村◆最初はウインドの橋本さんに頼んで、配給経由ですね。でも、新潟でお会いする前に会いたいなと思って、テアトル新宿の廣木監督が来るイベントに行ってご挨拶したんです。廣木監督が来館してくださったことで、田口トモロヲさんを呼ぼうとか、図に乗ったんですね(笑)。うちの良美さん(=奥様)とか、宮野素子とかが呼びたいと言って、僕はそれ無理だよ、って言ってたんだけど、監督から連絡先を聞いて、そこから始まった。

(注:田口トモロヲさんは97年に“HOGA-BIN”企画「オレ様映画祭」で初来館)

——あの頃はほんとにいろんな方が来館してくださって、盛り上がってたよね。

中村◆ほぼ毎月のように、阪本順治監督とか、荒井晴彦さんとか、瀬々敬久監督とか、来てくださってた。

——「さよなら歌舞伎町」での廣木監督来館は初日の3月7日。

中村◆廣木さんは初来館からこの3月でちょうど20周年なんですよ。一昨日、東京で「さよなら歌舞伎町」監督・出演者のトークイベントを見てきたんですけど、その打ち上げで廣木さんが他の人に僕を紹介するときに、「シネ・ウインドで初めて呼ばれた監督は俺なんだよ」みたいなことを言ってた(笑)。たくさん監督がいるのになんで俺なんだ?って。

——今は、映画監督さんや俳優さんと直接お付き合いをされてますよね。

中村◆そんなことないですよ。「映画芸術」(=映芸)にベストテンを書くとき、最初は肩書きに「シネ・ウインド」って入れてたんだけど、それだとシネ・ウインドの意見を代表してるみたいになるので、悪口が書けない(笑)。ベストテンだけじゃなくワーストも書くし。だから肩書きを「会社員」に変えたんです。

——「映芸」のベストテンはいつからですか?

中村◆「GO」が01年度のベストワンだった年からですね。確か荒井晴彦さんと廣木さんが「ヴァイブレータ」のロケハンで新潟に来た時に、やらないかって言われたんですよ。

“戦後70年”

中村◆上映作品の選定に、シアター班とか、若い人がもっと積極的にかかわればいいのに、って思う。そうすると若い会員も増えるかもしれない。あの頃は、僕は比較的自由にさせてもらえてた、っていうのがあるんですよ。

——私も開館当時は上映企画室にいたけど、映画館を取り巻く状況は前よりずっと厳しいのじゃないかな。映画の数が増えて、上映作品数もものすごく増えて、その調整もあるし。

中村◆オールナイトがもっとあるといいね。

——オールナイトは期待してる人がいるんじゃないかな。何か考えてる企画は?

中村◆企画はいろいろあります。思いつきが多いけど(笑)。30年記念企画案もいっぱいあります。“戦後70年”をやりたい。ちょっとかっこつけて言うんですけど、東京大空襲や原爆ものだけじゃなくて、日本が加害者となった映画もやるべきじゃないか、と。

世界を変えたくて

——今は年間何本くらい見てるんですか?

中村◆少ないですよ。今は100本見てない。最高で年間450本見たことがあります。独身で東京にいた頃。映画しか金の使い道がなかったし、暇だったし。今は、ほぼ日本映画しか見てない。「映芸」のベストテンがあるんで、そのために見てるようなもの。年間500本近く公開される日本映画からベストやワーストを決めると思うと、申し訳が立つ程度には見ようかな、と。自己満足なんですけど。

——「映芸」去年のベストワンは?

中村◆「野のなななのか」にしました。「この空の花」も公開年のベストワンでした。

——大林宣彦監督は昔から好きなんですか?

中村◆好きですよ。昔より好きになったかもしれない。「転校生」とか「さびしんぼう」とかをみんな褒めるじゃないですか。それはそうかもしれないけど、でも最近の、年を取ってからのほうがアヴァンギャルドな作りになって、どんどんカット数が増えて。この人、大丈夫なんだろうか、みたいな(笑)。それってすごいな、と。園子温が、世界を変える表現をしない芸術家はダメだ、みたいなことを言ってたんです。そういう意味では、大林さんは何かを変えようと思って表現している、という感じがすごくする。瀬々監督の「ヘヴンズ ストーリー」とか、園子温の「愛のむきだし」とか、表現したくてたまらなくて、世間に対して何か言いたくてたまらないっていうのがよくわかる。素晴らしいなと思います。

——賢作さんは何をしたくて上映してるの?

中村◆僕も世界を変えたくて。ほんとかよ、ウソばっかし(笑)。

——企画を考える時は、何かコンセプトがあるの?

中村◆やっぱり、みんなの人生に影響を与えるような映画、というのはありますね。ヘイトスピーチやってる人に、そんなことバカバカしくてやめたくなるような映画を見せたい、とかね。ちょっとかっこつけましたけど(笑)、そんな感じです。

※2015年1月18日、シネ・ウインドにて

テープ起こし・構成 岸じゅん

聞き手・文・構成 市川明美

■中村賢作…シネ・ウインド ボランティアスタッフ。1962年、佐渡市出身。新潟大学人文学部卒。

92年に100本の日本映画を上映しようと“日本映画大冒険”をスタート。達成後、96年に、2000年までに日本映画100企画をと“HOGA-BIN”スタート。達成後(月刊ウインド01年2月号参照)、01年に、田中要次さん来館のオールナイトで“Project DOMO”を開始し、現在も継続中。

独自の当日配布パンフや宣伝チラシ作りに定評がある。月刊ウインドでは映画紹介文を多数担当。シネ・ウインド前においてあるテレビで流している予告編ビデオや、この2月には「30年目プロジェクト」として「アラサー通信」作成も。

奥さんと小学生の娘さんあり。

※「映画芸術」の発行・編集人は荒井晴彦さん。シネ・ウインドでも販売しています。

※月刊ウインド2015年3月号より転載

※月刊ウインド2015年5月号に、中村賢作さんによる「廣木隆一監督インタビュー」が掲載されています。