2026年6月27日、Noism夏公演の初日の舞台を観てきた。渾身の2演目には徹頭徹尾、圧倒され通しだった。同時に、新潟市民としてシビックプライドをかき立てられずにはいられない「公共劇場専属舞踊団」という在り方でのNoismを観る機会がこれを含めて3回になってしまったことを残念に思う気持ちもある。今回も物凄い舞台を目撃したからである。

印象的な赤と黒、静謐なタブローを思わせる『私は海をだきしめていたい』。官能的でいて、パリのエスプリ要素やアラン・レネ『去年マリエンバードで』のような不条理も香しい。休憩を挟んだ後は、情動を煽りたてて止まない激烈な改訂版『春の祭典』。神経症的不安が募る季節、「木の芽どき」としての「春」に身の毛もよだつ思いはどんどん加速していった。そんな静と動、真逆とも言える2演目を併せて観る公演はまさに豊穣そのものであり、贅沢なことこの上ない。
しかし、この舞台、観終えたとき、人は、(今回もまた、)せいぜいが「良かった」「凄かった」或いは「美しかった」くらいの陳腐な言葉しか出てこないことに絶望するほかない筈である。観る者を感動にうち震わせておきながら、いざ語ろうとすると、その言葉の限界にまざまざ直面させては、絶望に苛まれることを余儀なくさせてしまう舞台、それがNoism。幾百、幾千もの言葉を費やして語ろうとも、その絶望はおおよそ変わらない。舞踊への献身のみが可能にするその境地、まさに語り得ないのである。
「自由に観てくれればよい」、金森さんは常にそう言ってくれるのだが、ことによると、その「自由」ほど厄介なものもないのかもしれない。その「自由」。「わかる/わからない」の次元とは一線を画すものなのだが、容易に言語化されたり、要約されたりしない舞台を「自由に」見詰めることが、市民への浸透という積年の課題にとってある種の障壁となっていたのかもしれないとすれば、実に皮肉なことと言えようが、それも今は別の話か。ともかく、舞踊家の身体が、言語を介することなしに、音楽と照明、限られた装置と渾然一体となって、客席にいるこちらの身体に届き、そこに共振が始まるや、そこからはもう感情は揺さぶられっ放しになり、最後には陶然となって、大きな感動に包まれている自分を見出すことになるのである。その一期一会の生々しさの体験はまさに「事件」と呼ぶに如くはなく、足を運ばぬことを選んでしまうのは実に勿体ない。

これまで、Noismの公演時間にあって、観ることが出来るにも拘わらず、それを選ばずに、その一時間強を、それに勝る豊穣な時間にする術などついぞ思いつきもしなかったので、可能な限り、公演会場を訪れることにしてきた。足を運びさえすれば、(たとえ何度目の鑑賞であったとしても、)その都度、(その一度限りの)途方もない渾身の舞台を総身で受け止める至福にあずかることが出来るからである。そして今回、幸い、埼玉もさして遠くはないのだし、全公演を観ることが出来る僥倖を有難く噛み締めている。他の選択肢などあり得ないし、別に難儀なことなど何もない。この「語り得ぬもの」を目撃する時間が私の人生にとってかけがえのないものであると確信するからである。
今、私はNoismをだきしめていたい。(2026/06/27)
Noismサポーターズ Unofficial 下村 伸

